2014-15 WEB週報1月度

1月28日(水)例会

増尾会長挨拶

早いもので1月も末の28日,第29回例会です。立春ではじまる二十四節季,最後の大寒です。七十二候も最後の「鶏始めて乳す」鶏が卵を生みはじめるころを言います。いまでこそ1年中ある物価の優等生といわれている卵ですが,もともと鶏の産卵期は春から夏でした。日本の最低気温―41度を北海道旭川で記録しているのはこのころですし,今時分の冬の季語では春隣(はるとなり)といい,もうすぐ春が来ているという意味で,寒さががこたえる真冬とはいえ,かすかな春の予兆に目を向けてはかすかな春の息吹を感じたいものです。

四季折々を体感しながら1年を過ごせる大八洲,八百万の神々に感謝しつつロータリアンとして奉仕の活動を進めていきましょう。

  今日の客話は「さぬき初の医学士・神内由己」と題して,香川大学医学部名誉教授の西岡幹夫博士からお話しいただきます。よろしくお願いいたします。

 週に一度の例会で,五常の教えの仁義礼智+信の一字一字の意味をかみしめて,交流をはかり,客話で自分の引き出しふやせる出席をしましょう。 よろしくお願いします。

高松グリーンロータリークラブ 落合新氏

客話「さぬき初の医学博士—神内由己」

香川大学医学部名誉教授 医学博士 西岡幹夫氏

 神内家の初代は神内玄周で,神内家より木田郡井戸村高木へ養子に入ります。その後,代々この地で医を業としました。4代目捨蔵には二男二女があったが,長男の堅爾が谷本家の養子となったため,二男であった神内由己が神内家の嗣子となりました。由己は,優秀の誉れ高く,高松藩医柏原謙好,謙益の門に入り,医学を学びます。明治元年,15歳の時,高松藩講道館に入学します。由己は,英語を学びます。明治3年12月12日,医学寮の柏原謙益ら教授が生徒と御坊川で牡馬の解剖を行い,医学寮にいた由己の名前も見られます。讃岐における初めての解剖とされます。

 明治4年,廃藩置県で高松講道館が廃止になり,由己は江戸へ,大学東校(東京大学の前身)へ入学,官費生となります。明治12年11月,25歳で,東京大学医学部を卒業します。讃岐における初めての医学士の誕生です。

 明治13年1月,府立大阪病院(大阪大学医学部の前身)の教授掛,同年7月には大阪府立医学校の教授に昇進します。「黴毒新論」を出版します。明治14年,大阪府立医学校の副院長となり,「医家袖寶」を出版します。明治16年9月,大阪府立医学校の校長,院長を兼務し,大変早い出世をします。しかし,明治16年春頃,肺疾患を病み,11月熱海にて療養するが効果なく,同校を辞任します。その後,病は改善し,熱海浴場(吸気館)の初代医長を拝命します。明治18年夏,病が再発,辞職し,郷里の高木の実家へ帰ります。明治19年11月8日,没します。享年33歳です。由己の墓は,高木にあり,捨蔵が作成した墓碑銘には「大学医学士神内由己」と特記されています。

  由己の妻浪の兄は,林研海であり,研海は我が国初の海外留学としてオランダで医学を学んでいます。研海は,明治4年,陸軍軍医監,明治12年,第2代目軍医総監となっています。

Club Banner
Club Banner

 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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