2012-13年度 WEB週報3月度

3月6日(水)例会

吉田 茂会長挨拶

 暖かい日になりました。そこで、温かさについて、話をさせていただきます。

2年前の東日本大震災の後、非常食を食べて過ごした人も多かったようですが、それで何が問題だったか皆さんご存知でしょうか。

 温かい食事ができないと、腸が冷えて、免疫力が落ちるのだそうです。

私は、最近のテレビ番組で知りましたが、長尾先生間違いないでしょうか(長尾先生うなずく)。人間の体にとって,温かい食事が必要なのです、いわんや人の心においてをやです。人の温かさ、優しさが、人を元気にするのだと思います。

卓話 電気料金の値上げ申請について

谷崎 浩一会員

 本日は、皆さまにとってあまり聞きたくない話だと思いますが、2月20日に行った電気料金の値上げ申請について、ご説明をさせていただきます。

 皆さまには、節電でご不便・ご迷惑をおかけしているうえに、電気料金の値上げにより一層のご負担をお願いすることとなり、深くお詫びいたします。

 弊社では、経営全般に亘る合理化・効率化を推進していますが、火力燃料費の増加など、伊方発電所の長期停止による影響はあまりにも大きく、24年度も大幅赤字が避けられない見通しとなっています。

 これまで効率化の徹底と内部留保の取り崩しにより凌いでまいりましたが、2期連続の赤字決算により収支・財務状況が急激に悪化しており、現行の電気料金のままでは、安定供給に必要な資金調達に支障を来たしかねない事態となっています。このため、やむを得ず、最後の手段と位置づけてきた電気料金の値上げをお願いさせていただくこととなりました。

 伊方3号機の25年7月運転再開、人件費や修繕費を中心に年平均281億円のコスト削減を織り込むなど、値上げ率の圧縮に最大限努めましたが、25年7月1日から、規制部門で平均10.94%、自由化部門で平均17.50%の値上げをお願いする次第です。

 多大なご負担をお願いすることとなり、誠に申し訳ございませんが、何卒、事情ご賢察のうえ、ご理解賜りますようお願い申し上げます。

3月13日(水)例会

会長挨拶

 挨拶は短い方が良いと思っています。

今日の会員卓話は、三宅旬さんの「狭山池はどうやって造ったのか~日本古来の土木技術について~」です。興味深いので、早く長く聞きたいと思います。

 しかし、さすがにこれで終わっては、会長の責任を果たせていないと思います。もう少しだけ話します。

 富山南ロータリークラブから、友好クラブになりませんかというお誘いがきています。お受けしたいと思いますが、お付き合いの頻度・内容等については、検討が必要だと思います。例会後の理事・役員会で、方向性を決めたいと思いますので、ご意見がある方は、それまでにお願いします。

卓 話「狭山池はどうやって造ったのか

~日本古来の土木技術について~」

三宅 旬会員

 狭山池は大阪平野南部に位置し、今から約1400年前に大和川支流の西除川本流を堰き止めて作られたもので、日本最古のダム形式のため池と言われています。江戸時代初期まで狭山池は大阪城付近までの広い範囲を潤す大変重要なため池でした。

 1704年、中甚兵衛により大和川が堺方面へわずか8ヶ月で付け替えられたあと灌漑面積は半減しましたが、雨の少ない地方でため池に農業用水を供給する親池として重要な役割を担っており現在も利用されています。

 この度、老朽化した狭山池を改修し、洪水調節も可能なダムに作り変える工事、いわゆる「平成の大改修」を大林組・佐藤工業・奥村組の共同企業体で行いました。

 ため池には、堤体(土堰堤)、取水設備(底樋、樋管)、洪水吐(余水吐、除げ)が必要ですが、狭山池にも築造当初からの堤体と各時代の樋管が残されていました。本日は私が撮影した写真を中心に狭山池の歴史と古代の土木技術についてお話をしたいと思います。

 始めに1400年にわたる狭山池の主な築造・改修の歴史について説明をしておきます。

最初に狭山池が作られたのは616年頃と言われています。この頃は推古天皇、聖徳太子の時代ですが、ビッグプロジェクトでしたのできっとこの工事を視察に来たと推測されます。731年には多くの土木工事を行った行基が改修しています。今回の工事に伴う調査で当初の築造年代が616年頃と確定するまでは狭山池は行基が作ったと言われていました。奈良時代の762年には堤体の大きさを倍ほどにする大規模な改修が行われました。ちょうど東大寺が建造された頃です。

 鎌倉時代の1202年には東大寺復興に尽力した重源による改修が行われました。この時には古墳の石棺を利用した底樋が作られました。その後戦国時代にかけて決壊し長らく荒れ果てていたと思われますが、1608年豊臣秀頼の家臣・片桐且元による大改修が行われました。この時には堤体を補強するとともに東樋、中樋、西樋が新設され、中樋・西樋は昭和初期の改修まで300年以上使用されていました。これ以後も度々決壊しましたが、池底まで決壊するようなことはなくなったため、逆に池に堆積物が溜まり浅くなっていきました。昭和初期には取水塔や余水吐をコンクリート製にする大改修が行われました。そして今回の「平成の大改修」では旧堤体を嵩上げして貯水容量を大幅に増やすとともに取水設備や洪水吐を新設しました。池の周辺も整備し、桜並木を復元して府民の憩いの場として大変親しまれています。

 ではこれから土木遺構についてお話していきます。当初と奈良時代の堤体には葉のついた枝を敷き詰めながら盛土した「敷き葉工法」が用いられています。この工法の目的は堤体盛土の補強、圧密沈下促進、施工管理、足元の沈下防止などが考えられますが、結論はまだ出ていません。敷き葉を掘り出した瞬間は桜餅を包んでいる桜の葉程度の淡い緑色が残っており、葉脈もはっきり見えていましたが、すぐに酸化し黒変してしまいます。したがってこの感動は現場にいたものしか味わうことが出来ませんでした。盛土は黒っぽい土や白っぽい土を薄く敷きならしながら転圧されており、大変丁寧な施工がなされています。

 このように堤体断面には築造の歴史と土木技術が残されており大変貴重なものです。これを後世に残すべく全断面(高さ約15m、底幅約60m)を101個のブロックに分割して保存処理し狭山池博物館内に復元展示しています。

次に、底樋を中心に話をしていきます。

616年頃に最初に作られた時には右岸側の地山を掘り込んで樋管が伏せられました。これは直径数十センチの高野槙の大木を刳りぬいて丸木舟のようにし木の蓋をかぶせたものです。接合部は現在のヒューム管と同じようにソケット状に加工されています。木が伐採されたのは、木の年輪の粗密を調べることによって年代を決定できる「年輪年代法」により616年だということがわかり、池の築造年代がほぼ確定できました。高野槙は軽くて水に強い大変優れた材料で古墳時代の木棺にも使用されています。同じ太さの巨木を見つけ山奥から運搬してくるのは大変な作業だったと思われます。残念ながら太い高野槙はこの頃に伐採され尽くされたそうです。

 約150年後の奈良時代の改修では堤体が大規模に拡幅されました。樋は当初の樋の上流側に継ぎ足す形で利用されています。つまり当初の底樋は少なくとも150年は現役で活躍していたということがわかり、その後も少なくとも9世紀までは樋が改修されて使用されていたことがわかっています。

 鎌倉時代になり重源は壊れていた池を修復しました。重源は石の高耐久性に着目し、底樋に富田林や羽曳野あたりの古墳時代の石棺を取ってきて利用しました。石棺の妻部分を削れば巨大なU字溝になるわけです。また石棺の底部に丸い穴を開けて取水孔にしたと思われるものもあり、木の棒を差し込んで流量を調整したと考えられています。

 江戸時代初期には片桐且元によりほぼ現在の形となる大規模な改修が行われました。

まず、東樋はヒノキの厚板4枚を「ロ」の字型に組み合わせて作られました。ずれることが無いよう複雑な形で組み合わされており、継ぎ目には木の皮を挟んで水漏れを防いでいます。底板と側板は継いである場所が異なり、数十メートルの樋が一本ものとして作られており、取り上げることが出来ず、やむなく両挽き鋸で切断して保存処理しました。発掘当時はヒノキの良い香りが漂い、巨大な犬釘はまだ銀色に光っていました。この東樋は築造当初の樋管の直上に敷設されていました。つまり1000年前の樋がそこにあったことを知りながら設置したのです。ひょっとしたらまだ使われていたのかもしれません。

 中樋の樋管は東樋と同じ構造ですが、昭和初期の改修で樋管部分が撤去され、取水部だけが残されていました。その両側には重源が再利用した古墳の石棺が護岸石として再々利用されていました。護岸の右端には重源の功績を刻んだ石碑が伏せられておいてあり、掘り込まれた字が消えずに残っていました。石碑には、天平三年に行基が堤を築いたこと、下流の村々の要請で重源が82歳のときに修復したこと、土を掘り石碑を伏せ3ヶ月で完了したことなどが書いてありました。重源の行った改修工事が証明された貴重な石碑です。

 同じ頃、池内側の護岸のために長い松杭と竹を用いた木製枠工も作られました。

江戸時代末期の絵図にも描かれている「龍神淵」は硬い粘土の地盤を直径30m足らず、深さ4mほどお釜状に掘り下げて作られたもので、中央部には四角い御影石が伏せてあり、その下には壺に入れた鎮め物がありました。その頃、毎年のように西除けの余水吐付近が決壊し、大変苦労していました。人々は、余水吐が度々決壊するのは、改修工事で余水吐直下の滝壺を埋めたためにそこに棲む龍神が怒ったからだと考え、池の中に旱魃のときでも棲めるように淵を掘ったものでした。重機を使用してもようやく掘削できるほどの硬い地盤を、人力だけで淵を掘り上げた人々の思いがひしひしと伝わってきます。

 今まで紹介してきました多くの土木遺構は工事の支障となるため、大半を撤去しましたが、貴重な遺産であるため、ダム下流側に大阪府立狭山池博物館を建設して納めています。博物館は無料ですので是非一度訪ねてみてください。

狭山池は何故1400年もの間利用することができたのでしょうか。一つは優れた材料を用いたことです。例えば当初に設けられた高野槙の樋管は2世紀以上も利用されています。また江戸初期の樋管は昭和初期まで300年以上現役で使用されていました。さらにため池作りを得意とする技術集団がいて、その技術が伝承されてきたからです。例えば「敷き葉工法」や樋管を作る技術は少なくとも150年間同じ工法が用いられています。そして何よりもこの池を守り抜こうとする技術者の熱い思いが池を守り続けたのだと思います。

 現在は確かに高度な土木技術を開発しています。電話一本で鋼材やコンクリートを手に入れることが出来ます。しかし、古代の土木技術者は重機も電力も測量道具も無い時代に自然の材料と人力だけで工事を成し遂げてきました。そういう意味では古代の技術者のほうがはるかに優れているのではないでしょうか。しかしながら、自分が精魂込めて作り上げたため池が洪水により決壊する様子を目の当たりにしたであろう技術者の無念さも私にはわかります。

行基、重源、片桐且元など、著名な人物が行ってきた狭山池の改修工事に携われたことは土木技術者としてこの上ない喜びであります。私どもの大改修がいつまでも狭山池改修誌の最終ページであることを願ってやみません。

(株式会社大林組四国支店)

3月27日(水)例会

会長挨拶

 冷たい雨の中、例会に出席していただき、ありがとうございます。ここにいない人に嫌味を言っても、仕方ないですね。欠席の会員は昨晩のサッカーの応援の疲れかもしれません。ヨルダウンでしょうか。笑っていただくところです。

 富山南ロータリークラブの4名の方が、4月26日に高松に来て下さいます。6名くらいで、歓迎しようと考えています。いずれ、富山県の氷見港から、立山連峰を見る日のための第一歩になると思います。

卓話「いざという時の えりまきフロート」

上村 光男会員

 今回中国蘇州にて開発製造した救命胴衣の説明をさせていただきます。

 一昨年の3・11大震災を思うにあたり、やはり災害弱者と言われている介護を必要とする老人や女性そして多くの子供たちが被災されました。

そこに小さな浮き輪の発泡スチロール板やライフジャケット等が身近にあれば、かなりの方達の命が助かったかと思われます。

 しかし、災害は忘れた頃にやってくるの言葉通り、災害にはイザというときに身近に必要なものが無いのが現状で、直ぐに取り出せる置場が重要かと思われます。

また日頃使い慣れないライフジャケット等も現実は装着して水に入ると大変怖いものです。私の友人で弁理士の釣り好きな先生は、ジャケットを付けた状態で溺れかけたときに顔が水中に浸かったりすることが怖いので大きな枕を後頭部に装着していると聞きました。見た目よりも、機能と安全が一番だと言っています。

 別の会社員は、飛行機で出張帰りに事故発生、緊急用の酸素マスクが上部より、降りて来てびっくりしたが安心もしたそうです。

今回、開発し発売のライフジャケットは、この2つの事がヒントになりました。

①えりまきが、頭を浮かせる。②緊急時に、直ぐに取り出せる。これらの状況から最良は何かと考えて開発し発売に至りました。

昨年10月高知県の須崎市役所を訪問し、須崎市の楠瀬耕作市長に新開発のライフジャケット「えりまきフロート」を寄贈しました。

須崎市は、高知県でも台風、地震、津波、洪水等の影響を受けやすく海岸から、高台までの避難時間もかなり必要としています。

緊急時に被害に遭いやすい為、避難報道直後よりこの「えりまきフロート」を着用して安全な場所まで逃げることが最重要と考え寄贈しました。今後こういった活動を通じて、社会貢献してまいりたいと思います。

Club Banner
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 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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