9月25日(水) 第12回例会

会長挨拶                マスウド ソバハニ会長

10月4日(金)~6日(日)に高知で開催される地区大会に、RI会長代理として来られる桑原茂PDGは宮城県塩釜RCの方で、2年半前にご自身も津波の被害に遭っておられます。以前お話を聞いたことがありますが、とても active で面白い内容で、私も感動しました(be moved)。たくさんの会員に聞いていただきたいと思います。三宅弘先生と私はゴルフもがんばります。先週 make up に来られた田辺はまゆうRCの皆様を、本当はイサムノグチ庭園美術館に連れて行きたかったのですが、水曜日がお休みなのであきらめました。その代わりに、和泉正敏さん(石の作家)に教えていただいた庵治にあるイサムノグチの hideout (秘密の庭園)に案内し、皆に喜んでいただきました。そして、私の家でくつろいだ後、「はも」料理に舌鼓を打ちながら大いに盛り上がりました。太田さん、増尾さん、篠田さん、今城さん、ありがとうございました。菊池会長さんからはその後何回も電話をいただき、関西学院大学生のお嬢さんが来週、神戸の家に遊びに来ることになっています。三宅旬さんが今日で退会されます。2年半のお付き合いでしたが、とってもお世話になりました。ますますのご活躍をお祈りします。

新会員卓話「私の祖父と日系移民」   渡邉芳郎会員

渡邉芳郎会員
渡邉芳郎会員

 今日は、母方の祖父について話させていただきます。祖父は西南戦争の前年に、広島県大野村(宮島の手前)で生まれました。明治23(1891)年、15歳で米国サンフランシスコに渡り詳細は不詳ですが、農園仕事、クリーニング、コック、ホテルマン等の職を経験したようです。1880年代日本は不況のどん底にあえいでいた。商業の不振と失業、重税に加え度重なる凶作に見舞われ、明治政府は農村の疲弊対策として移民募集を積極的に行ったころという風潮の中です。大正7(1918)年、44歳のとき結婚のため一時帰国し、翌年再渡米し私の母がうまれています。当時の米国では、異人種間の結婚は法律で認められず多くの一世達は日本の親戚を頼り写真だけのお見合いで花嫁を募集していた。いわゆる写真花嫁で、日系コミニティの発展が促されました。

1920年代からの厳しい日系移民排斥運動が高まるなかで、英語に堪能な祖父は大正11(1922)年独立してホテルを開業し、困難な戦前戦後を通じて昭和32(1957)年に亡くなるまでワシントン州スポーケン市でホテル業を継続していました。真珠湾攻撃による太平洋戦争で西海岸に住む約11万人もの日系人全員が収容所での劣悪な環境のもと、無一文ですごさせられ、他方日系人部隊が編成され激戦地域に派遣され多くの犠牲者がでました。母の妹は昭和20年8月6日広島で、自分を育んでくれた国の殺戮兵器で殺されました。残っていたのはメガネのつるだけでした。祖父が米国国籍を取得できたのは昭和27(1952)年のことでした。米国が戦前戦中の負の遺産を完全に精算したのは昭和63(1988)年のことです。祖父の生き様で感じるのは平和の尊さです。

Club Banner
Club Banner

 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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