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客話「鎌倉芳太郎の琉球文化研究」

名桜大学大学院特任教授 波照間永吉先生

 

令和5年9月25日

ホテルクレメント高松にて

私は石垣(島)の生まれで、1960年代後半に首里城跡地にできた琉球大学に進学しましたが、その当時は丘の上にコンクリートの建物があるだけでした。そこは沖縄戦の時に、その地下壕に旧日本陸軍の司令部が置かれたため、米軍により集中的に攻撃されたところで、首里では地上に立つものほぼすべてが破壊されており、誇れるものや文化などは何もないところだと思っていました。

私が鎌倉芳太郎先生の名前を知ったのは19722月、私が22歳の時でした。

1972515日に沖縄は日本に復帰しましたが、その直前の同年23月に、首里の龍潭池の向かいにあった琉球政府立博物館で「五〇年前の沖縄―写真で見る失われた文化財」が開催されました。

 

当時の沖縄は基地の問題や、1ドル360円の交換レートを始め、政治的にも経済的にも騒然としており、そのような社会の混乱の中で、沖縄文化は主張するに足るものであるか、などといった疑問が自分の中で渦巻いている時でした。

そのようなときに見たのがこの「五〇年前の沖縄」展でした。博物館の1階ホールから2階の会場に向かうスロープから見える前面の壁一杯に広がった写真に度肝を抜かれました。それは鎌倉先生が撮影した、首里城の北隣にあった尚家の菩提寺で、第三代尚真王の時代(1494年)に建てられた円覚寺の三門の写真でした。古木の枝の枝葉の間からは木漏れ日がさしており、その向こうに大きな三門がある。これが本来の円覚寺の姿か、と息をのんで見ていたのは私だけではなく、多くの人々が驚嘆していました。

その他、豪壮な建築物や文化財、首里や那覇の王家、名家に収蔵されていた工芸品などの写真、そして螺鈿細工などの工芸品が多く展示されており、戦前の琉球、沖縄にはこのような建築や工芸品を生み出す文化の質や量的な力を持っていたことを知らしめてくれました。

 

「五〇年前の沖縄」展には、40日間の期間中に182,000人の入場者があり、当時の沖縄県の人口が96万人だったことを考えると、興味を持って会場に足を運んだ人の多さが理解できると思います。

 

鎌倉芳太郎先生(1898年10月19日~1983年8月3日)略歴 -沖縄とのかかわり

1898年 香川県木田郡氷上村に生まれる

1918年 香川県師範学校本科第一部卒業・東京美術学校図画師範科入学

1921年 東京美術学校卒業

     沖縄赴任の前に奈良の古美術見学を志した

     唐招提寺において、鑑真和上が「阿児奈波(沖縄)」に漂着していることに興味を覚えた

1921年 沖縄県女子師範学校・沖縄県立第一高等女学校教諭赴任

1923年 沖縄県女子師範学校・沖縄県立第一高等女学校教諭退職

     東京美術学校研究科へ入学

19245月~19255月 第1回「琉球芸術調査事業」

19264月~19279月 第2回「琉球芸術調査事業」

1930年 東京美術学校講師 ― 東洋美術史を講じる

1942年 東京美術学校助教授となる

1944年 東京美術学校依願免官

1945年 自宅戦災に遭い、東洋美術資料等焼失

1960年 新潟大学高田分校非常勤講師

1972年 「五〇年前の沖縄―写真で見る失われた文化財」展

     琉球政府立博物館 18万人の入場者

1972年 沖縄日本復帰

1977年 石垣市名誉市民

1982年 「沖縄文化の遺宝」出版 「伊波普猷賞」受賞

1983年 死去(享年84歳)

香川県三木町生まれ

鎌倉先生は18981019日、香川県木田郡氷上村に生まれました。緑豊かなところで少年時代を過ごしましたが、7歳の時にお母さまが亡くなり、おばさまに育てられました。学業は優秀で、14歳の時に香川県師範学校に入学し、1年から4年までずっとトップの成績を修めました。師範学校時代には、教諭であり、後に玉川大学(学園)の創立者となった小原國芳先生にかわいがられました。

卒業後は東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科という美術の教師になるコースに進みました。

「白山に あやにかけたる水車 こをひく音の 昔こほしや」(鎌倉春熙)

白山から登る太陽に思いをはせ、粉をひく音を思い浮かべながら、昔の思い出を偲ばせたのだと思います。

鎌倉先生は生涯、故郷を愛していました。

沖縄県女子師範学校・県立第一高等女学校教師時代の研究

19213月に東京美術学校図画師範科を卒業後、「私は大正十年三月、沖縄赴任の前に奈良の古美術見学を志し、その時唐招提寺において開山鑑真和上が渡海来朝の際『阿児奈波』(沖縄)に漂着していることを知り、甚だ興味を覚え」(『沖縄文化の遺宝』p.6)た。

鎌倉先生は奈良での古美術見学後、沖縄県女子師範学校・県立第一高等女学校に赴任し、首里城の近くにあった座間味家という高級士族の家に下宿していました。その家のおばあさまの座間味ツルを実母のように慕い、首里の上品な言葉を直接教えてもらい、孫娘さんからも繰り返し言葉を聞くことで学習し、耳を鍛え、ローマ字で記録することでマスターしていったのだと思います。

沖縄県立女子師範学校・県立第一高等女学校で教鞭を執る傍ら、沖縄県出身の沖縄タイムスに勤めるジャーナリスト、俳人でもある末吉安恭(麦門冬)との深い交流が始まり、末吉の紹介で琉球王府最後の絵師である長嶺華国やアメリカ帰りの写真家、小橋川朝重と交わりました。また、沖縄学の父といわれる那覇出身の民俗学者、言語学者である伊波普猷(いはふゆう)や歴史学者、沖縄学研究者である真境名安興(まじきなあんこう)との交流も始まりました。

また、入学試験の試験官として宮古、八重山へ渡り、八重山桃林寺の調査で琉球芸術の価値の高さを目の当たりにしました。

このような環境の中で、琉球国時代の建築、彫刻、絵画、工芸などの芸術調査を始めました

伊東忠太との出会いと首里城解体差し止め

2年間の沖縄赴任、研究の後、鎌倉先生は東京美術学校の研究科に入りました。当時校長であった正木直彦先生に沖縄研究成果の素晴らしさを認められ、それまでの造家という言葉を建築に改めた、日本建築学の祖、東京帝国大学の伊東忠太教授に紹介されました。

 

19236月、2年間の沖縄赴任から帰京した直後、東京茗荷谷にあった沖縄県学生寮でたまたま見つけた新聞の首里城取り壊しの記事を知り、伊東忠太の研究室に飛んで行きました。伊東はこの宮殿は琉球芸術の代表作であるからつぶしてはならない、と言ってさっそく電話で手配して内務省に出かけられ、とりあえず史跡名勝記念物として保存することに決定し、首里城解体を阻止しました。この報が沖縄に届いたのは、正殿の屋根に鉄槌が打ち下ろされようとする劇的な瞬間でした。首里城はその後、国宝に指定されました。

貴重な資料の収集と東京での保存、沖縄への里帰り

鎌倉先生が大正末から昭和初期に収集した琉球・沖縄芸術関係資料は、戦後そのほとんど全部がご遺族から沖縄県民に贈られました。

これらのうち、沖縄県立芸術大学に寄贈された資料は「鎌倉資料」の名で大学附属図書・芸術資料館に所蔵されています。その数は、重要文化財に指定されたガラス乾板1229点・台紙付紙焼き写真851点・調査ノート81点を筆頭に、写真資料(紙焼き写真)2952点、文書資料(原稿・筆写本・他)178点、紅型資料(型紙・他)2154点、陶磁器資料67点で、その総数は7512点という膨大なものです。

鎌倉先生がこれらの貴重な資料を収集して東京に持ち帰り、大切に大切に保存していなければ、何も残っていなかったのです。「鎌倉資料」は沖縄研究の歴史上、個人研究者が収集した資料としては最大にして最高の質を示すものです。そして、これらは20052月に国指定の重要文化財となりましたので、今では簡単に手に取ってみることはできなくなりました。

 

沖縄県立芸術大学附属研究所では、これらの「紅型資料」や「鎌倉ノート」を活字化して『資料集』として刊行してきました。そしてこれらをさらに多くの皆様に利用していただくために、資料を写真撮影したデジタル画像データベースを活用し、大学ホームページに「沖縄県立芸術大学附属図書・資料館所蔵 鎌倉芳太郎資料」として公開しています。ぜひご覧ください。

首里城の平成の復元

1923年には伊東忠太とともに首里城の取り壊しを阻止しましたが、1945年の沖縄戦ではそのほとんど全てが灰燼に帰してしまいました。

首里城の平成の復元は、「首里城の復元なくしては沖縄の戦後は終わらない」という県民の強い思いを背景に行われたものでした。この復元に一番役立った資料は、鎌倉先生が残した寸法記や写真、絵図でした。

 

撮影した写真と並んで大きく活躍したのが、「百浦添御殿普請付御絵図御材木寸法記」などの首里城関係文書です。「正殿正面唐玻豊絵図」など、正殿内の各所の精密な絵図とともに色彩や寸法の指定がされています。また、「下庫理差図」や「二階差図」のように柱や壁、階段などの位置を示した建物平面図が多数収録されており、その精緻さが復元に大きな役割を果たしました。鎌倉先生は二度首里城を救った忘れてはならない人です。

令和の復元

残念ながら、201910月の火災で首里城の正殿は焼け落ちましたが、2026年の復元に向けて工事が進んでいます。平成の復元の後、鎌倉先生が遺した資料を再検討すると、再現が不十分なところがいろいろと見つかりました。玉座の大事な部分である高欄の下部が円柱状ではなくブーツ型であったり、柱には漆の文様が入っていたり、軒丸瓦も変わります。今回はより正確な復元になると思います。

琉球紅型の復興

鎌倉先生の研究は首里城のみならず、琉球紅型の復興にも大きく役立ちました。

戦後廃れつつあった沖縄の紅型関係者からその復興への協力を頼まれると快諾し、収集した型紙を寄贈することも含め、全面的に協力しました。

鎌倉先生は本来、教育者、研究者であり、東京美術学校の彫刻の助教授でした。戦後、退官後も中野区沼袋に今もあるご自宅で、芸術家である静江夫人の協力を得ながら、紅型の研究を続けました。大正~昭和時代に収集した型紙や習得した技法で、六十代から紅型の創作に入り、型絵染という新しいジャンルを作り、1973年(74歳)に重要無形文化財「型絵染」保持者(人間国宝)に指定されました。

沖縄紅型は、本土で見ると少しけばけばしく感じるかもしれませんが、沖縄の光の中ではその色彩が映えるのです。「紅型を継承するのは沖縄の人であり、それ以外の誰でもない。結局私は本土からの旅人であり、そこに日本人としての新しい心象の世界を表現しなければならない」として、自らは研究者から紅型の制作者に転身、沖縄紅型とは違った分野で活躍し、人間国宝まで上り詰めました。

 

代表作である「型絵段染山水文上布長着」は収集した型紙と技法で鎌倉先生が染めたものですが、山の絵は故郷の白山、色合いは瀬戸内の海、空の色をイメージしています。

第一回「琉球芸術調査事業」

19244月から19255月まで、薩摩出身の富豪の息子、赤星鉄馬が設立した日本初の本格的な学術支援団体である財団法人啓明会から1か年3,000円(現在の価値で言えば約2,000万円)の補助を受けて、伊東忠太との共同事業である、第一回「琉球芸術調査事業」が行われました。

補助金の内の1,000円でドイツ製写真機ダゴールを入手し、東京美術学校写真家主任であった森芳太郎教授の特別指導を受け、写真技術を習得しました。この技術を駆使し、首里城はじめ多数の建築物、美術、工芸品などの写真撮影を行いました。

「鹿児島経由で南航し、三日目の早朝那覇到着、さっそく首里市役所に出頭して、市長高嶺朝教氏に会い、市役所内に写真の暗室を作ってもらうことを願い出て、許可を受け」ました。毎日昼間は写真を撮影して歩き、夜は乾板を現像、首里城の龍樋から水を引いた師範学校の浴場で一晩中水洗いし、翌日乾かしました。

また、尚家(中城御殿)を初めとする首里、那覇の旧家に所蔵される美術、工芸品の調査を行い、尚家所蔵文書ほか文献資料の筆写を行いました。

中城御殿については「家扶百名朝敏氏に会い、(中略)各種芸術の写真の撮影、文献の調査についても、侯爵家資料の公開が重要なのでこれを願い出て協力を依頼した」(『沖縄文化の遺宝』二七六頁)。真栄平房敬氏によると「ウグシク(首里城)を救ったということで、仲座ゲンタツ氏―尚侯爵家の侍従役―の先導で野嵩御殿―中城王子妃―とあったこともあるという(1999129日談)。

この調査の期間中、沖縄県師範学校の図面科教諭の西銘生楽氏の後任の役を引き受け、特に上級四年生のためには毎週二時間の沖縄美術史を講義しました。この組の級長が屋良朝苗氏でありました。

19722月に開催された「五〇年前の沖縄・写真で見る失われた遺宝に鎌倉先生は来沖され、初日の文化講演会で講演を始めようとする直前に、屋良朝苗行政主席(復帰後県知事)が復帰間近の多忙な業務の合間をぬって駆け付け、壇上に駆け上がり、師範学校時代の子弟がしっかり抱き合った瞬間は実に感動的でした(宮城篤正談)。」

雅号「春熙」を名乗りました。「一千九百二十四年八月二十九日、午前八時五十分/首里城保存ノ協議ノタメ沖縄県庁ニ行ク途中/隅(偶ノ誤)然ノ間ニコノ雅号ヲ得タリ美栄橋ノ附近神韻ノ迫リ来テ我自ラ微笑セリ、以テ/用イテ/永クコレヲ記念/センカ 鎌倉春熙」(ノートNo.27「雑ノート2」)(『ノート篇Ⅰ』p 813

 

192595日~7日までの3日間、啓明会主催で「琉球芸術展覧会及び講演会」が開催され、鎌倉集の資料2,000点と借り入れ品など、総計3,000点が展示されました。講演会の講師は柳田國男、伊東忠太、伊波普猷、東恩納寛惇等で、鎌倉先生の演題は「琉球芸術の本質」で、「漸く本格的な琉球学研究の第一歩を踏み出すことが出来たような気がする」と自ら評価されました。

第二回「琉球芸術調査事業」

19264月から19279月までの一年半、再び啓明会から3,000円の補助を受け、第二回「琉球芸術調査事業」が行われました。

沖縄島、伊平屋島、宮古諸島、八重山諸島について、特に各地の琉球固有の宗教につき御嶽神祠、祠堂等を調査し、祖先崇拝と太陽崇拝、火の神、水の神信仰につき見て廻り、写真撮影とフィールドノートの作成を行いました。これは伊東忠太の希望によるものでした。

さらに、尚家所蔵文書および沖縄県立図書館所蔵文書・各地旧家所蔵家譜等文書の筆写を行いました。

帰京後、啓明会創立10周年を記念して「琉球朝鮮波斯印度展覧会及び講演会」(於:東京美術学校)」が開催され、鎌倉先生は展覧会を担当しました。その展覧会は「先年来蒐集した染織工芸の資料三千点がその中軸」で、「琉球染色に就きて」と題して講演しました。

 

「琉球固有の宗教芸術と固有日本のそれとの比較研究は必ず学界に波紋を送りうるものと信じ居り候。侯爵家に於いて神事に関する文献は殆ど全部筆記模写致候。これ等は勿論、伊波、東恩納、柳田、諸家の未だ研究せられざる秘書にて候」とあります。

鎌倉芳太郎の見出した琉球芸術の価値

(1)「先島芸術と桃林寺の印象」(『八重山文化』第2号 1974年)に見る仁王像と権現堂の評価

鎌倉先生は1923210日~37日に宮古、八重山を入学試験の試験官として、また1924年と1926年には琉球芸術調査事業で訪問しました。

そこでは、旧仙台藩士で石垣測候所長であり、八重山地方の生物、民族、歴史に関する研究をしていた岩﨑卓爾や「八重山研究の父」と呼ばれ、石垣市名誉市民でもある喜舎場永珣と交流し、この二人の手引きで八重山研究を進めました。

赴任の翌年には、入学試験の試験官として宮古、八重山に渡りましたが、その時に行った八重山桃林寺の調査は琉球芸術の価値の高さを目の当たりにするものでした。その調査研究の成果が「先島芸術と桃林寺の印象」となっています。

桃林寺と、隣接する権現堂は八重山地方で最古の仏教寺院で、訪れた時に当時の住職に神殿、拝殿を開けてもらい、こんなに何百kmも離れた南の島にこのような素晴らしい文化があることに感激しました。

本堂の仁王像は沖縄県に現存する最古の木彫像ですが、運慶、快慶の作品に勝るとも劣らない、力強い琉球彫刻の象徴ともいえるものです。

「この日から狂気のやうに毎日研究に没頭(中略)広野のような八重山芸術の雰囲気に五里霧中になった」

「八重山は統一した美であった。調和してゐる仙境でした。縫い目のない羽衣とはよく看破してゐました」(p10

「(桃林寺の仁王像と法隆寺の大門の仁王像とは)ともに発生期の芸術である」(p11

「レムブランドの示す赤暗の中に燦然たる明暗の美であった。(中略)そのモチーフの純真なる遠く鎌倉期の仁王様にも凌駕するであらう。否私の直感には推古期なる法隆寺の大門を連想せしめた。共に発生期の芸術である」(p11

「ここに於いてレムブランドにも望み得ざる完成芸術と称する末期的なる頽廃派の夢想だになし能はざる純真の爆発がある。技巧は単純であるが面的効果が古代芸術の通有性を語った」(p11

「この桃林寺の建立は宗教問題を提供するばかりでなく、芸術上の問題を啓示している(中略)我国欽明天皇期の仏教伝来と推古期の芸術運動との関係の如く重要なる事件であった」(p13

「アゼンスだ。アゼンスだ。あの強健なるスパルタのような宮古の南にこの優美が秘められている」(p15

八重山の美よ。用意周到なこの建築よ。私の讃美する推古期の優秀さがここにあふれてゐる」

「作家も表現せられる美に酔ひ乍ら作ってゐる。周囲の民衆も自由なる霊を休めてゐる。表現する人格にひそむ天然の優美!八重山(ヤイマ)よ。」(p15

「ここに八重山の民衆の有する美の素質に驚かざるを得ない。又この人間性の発現である美を養うに適したる四ヶ字の生活様式の最も自然なるに学ばねばならないことを断言する」(p16

「恰も王殿カラファーフを縮図したる八重山権現堂は完成された。オリムピアの神殿がゲームの聖地であったが如くこの権現堂も亦四ヶ字の各種のゲームの聖境となってゐた」(p16

「私の推古期の或はグリークの古代芸術の研究はここに尚真王朝前後の開拓に共鳴しました。そして円覚寺派芸術なる観念はその分派なる桃林寺の芸術研究に到着したものです。まことに現代のアゼンスなる八重山 ― 生きた人々によって作られつつある推古期発生芸術の本体 ―」(p35

(2)『沖縄文化の遺宝』にみる琉球芸術の評価(『沖縄文化の遺宝』下巻参照)

1)画人伝(18名を取上げる)

・自了城間清豊(16141644

・呉師虔山口親雲上宗季(16721743

・向受祐玉城朝薫(16841734)― 辺土名家伝来の「関羽の像は、極彩色の画として伝神の妙技をつたえるものである」(p173

・殷元良座間味親雲上庸昌(17181767

・向元湖小橋川親方朝安(17481841)― 「向元湖の芸術はやはり常識的な努力と鍛錬の力によって磨かれた絵画というべく、これを人間の感受性に基づく独創的表現のものとは言い難いと思う」(p179

2)画人五大家とその作品の評価(『沖縄文化の遺宝』)

五大家―自了/呉師虔/殷元良(「鶉粟図」「雪景花鳥図」)/向元湖/毛長禧(「闘鶏早房之図」)

琉球王朝時代最後の絵師である佐渡山安健(毛長禧)(18061865)の「闘鶏早房之図」の評価

 

「毛長禧の全作品中でも出色のもの。(中略)図の上方には背景として薔薇花を画いてある。その表現は実物の写生から出て宋画風に様式化してあるが、細い描線は細密を極め、また鶏の羽毛を一筆一筆精緻な筆技で描写したあたり、佐渡山ならではと思われる高度な技巧である。(中略)かかる細密描写の花鳥画は本土はもとより中国においても類例を見ない」

沖縄言葉や生活、風習の記録

宮古島を調査した時には、宮古の民謡をローマ字で表記するなど、鎌倉は土地の言葉を正確に残さなければならない、変母音を正確に書かなければならないと、そしてローマ字だけでは表現できないものには付帯記号、独自記号を使い、その忠実な表記、記録に気を配っていたことに驚きを覚えます。

日本には8つの危機言語がありますが、その内の6つは琉球語です。弱小言語は消えていく可能性が高いと思います。鎌倉先生は宮古八重山の言葉をローマ字で、母音を正確に書いていますので、研究する価値は十分にあるし、誰かしてほしいと思います。

石垣、宮古の言葉は独特で、例えばトリ(鳥)の発音は場所によって変化します。宮古ではトゥジィ、トゥリィ、そして首里ではトゥイとなります。

沖縄では本土のことをヤマト(ヤマトゥ)と呼びます。同時期(大正末期~昭和初期)に柳田國男も折口信夫も来沖して沖縄研究をしていますが、二人ともにその仮名表記はヤマトとしています。鎌倉先生はヤマトゥと表記しています。

鎌倉先生は耳も非常に良かったと思いますし、記憶力も良かったと思います

琉球王朝時代、文字を持たなかった沖縄の庶民が日常の標となる記録に用いた藁算(わら算)のスケッチも鎌倉先生の力量を示すものです。その緻密さと正確な記述でよく理解できます。

 

また、奄美~八重山の各島における女性の手にあるハジチ(入れ墨)の模様を比較するなど、あらゆることに興味を持ち、記録しています。

沖縄と香川のご縁

鎌倉先生は収集した絵師の絵114枚を石垣市に寄贈したこともあり、1977年に第一号の石垣市名誉市民となっています。それらの絵図116枚も国の重要文化財に指定されています。そして、鎌倉先生は三木町名誉町民でもありますので、遺した偉業の顕彰を通じて、石垣市と三木町、そして沖縄と香川の文化交流がますます進むことを期待しています。

高松南ロータリークラブと那覇南ロータリークラブ、沖縄県立芸術大学とのご縁は十数年前から始まり、先日沖縄に沖縄鎌倉芳太郎顕彰会が設立されました。香川県三木町には2010年に鎌倉芳太郎顕彰会が鎌倉芳太郎顕彰碑を建立しています。そして今度は、首里城近くに沖縄での顕彰碑建立計画が進み、その建立が間近となっています。ぜひ皆様のご協力をお願いしたいと思います。

鎌倉先生は沖縄文化の恩人です。沖縄県民は皆、鎌倉先生の功績に心から感謝しています。

 

 

 

今回の波照間先生の来高は、主催は(一社)三木町観光協会、共催は鎌倉芳太郎顕彰会と(公財)三木町文化振興財団、後援は三木町と三木町教育委員会、高松大学・高松短期大学が、鎌倉芳太郎没後40年に合わせて企画した、「首里城を3度救った三木町出身の鎌倉芳太郎」シンポジウム(2023924日)の基調講演講師としてお呼びしたものです。お忙しい中にもかかわらず、高松南RC例会でもご講演いただきました。ありがとうございました。

(報告・文責 堀祥二)

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 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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