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鎌倉芳太郎の足跡と友好クラブ那覇南RCを訪ねて2019

1月26日(土)~28日(月)の間、鎌倉芳太郎の足跡と友好クラブ那覇南RC を訪ねる沖縄旅行に22名の会員家族で行ってきました。

今回の沖縄訪問の大きな目的は、生誕120周年を迎えた鎌倉芳太郎の顕彰活動と友好クラブ関係10周年を迎えた那覇南RCおよび富山南RCとの交流、那覇南RCとの友好関係締結書の延長でした。

1月26日夕刻には、那覇南RC有志のお世話で、那覇市松山のジャンボステーキハウスHANSにおいて、友好クラブである富山南RCからも芝田実会長はじめ5名の会員が参加され、交流会を開いていただきました。那覇南RCは次年度(2019-2020年度)のRI2580地区(北東京60クラブ+沖縄県11クラブ)地区大会ホストクラブ(実行委員長稲垣純一会員)となっており、準備に忙しい中にもかかわらず、和気あいあいと盛大に歓迎していただきました。


27日(日)には南城市にある守礼カントリークラブにおいて、友好3クラブの懇親ゴルフコンペが開催され、高松南からも6名のメンバーが参加し、さらなる友好を深めました。

同日夕刻からは、国際通り近くの島唄ライブ居酒屋ちょんちょんにおいて、南クラブ会員家族の懇親会を行いました。美男、美女の島唄に合わせて歌い、踊り、遅くまで南国の夜を楽しみました。

28日(月)午前には今回の訪問のメインである沖縄県立芸術大学での鎌倉芳太郎資料の見学に行きました。県立芸大は那覇市首里当蔵町(しゅりとうのくらちょう)にあり、首里城と隣接しており、多くの観光客が首里城に向かう通り道にもなっています。

芸大の図書館において、波照間永吉名誉教授と宮城篤正名誉教授(元学長)、5名の大学院生に、鎌倉芳太郎の弟子から譲り受けた本物の紅型のうちの5点や資料集、写真、レプリカなどを見せていただきました。紅型の精巧さ、ガラス乾板写真の迫力、芳太郎のスケッチの精密さや書き込み説明文の豊富さなどに感心させられました。

『鎌倉ノートのコピーを見せながら、大正末から昭和初期に沖縄現地で収集された琉球芸術関係資料は、そのほとんどがご遺族から沖縄県民のもとへ贈られた。このうち、沖縄県立芸術大学に寄贈された資料は「鎌倉資料」の名で附属図書・芸術資料館に所蔵されている。その数は、重要文化財に指定されているガラス乾板1200点余、調査ノート81冊を筆頭に7500点を超える膨大なものである。

本物の紅型を見せながら、紅型は彫るよりも型を貼り付ける方が難しく、髪の毛よりも細い絹糸で固定している。朧(おぼろ)型の型紙があったが、これは王朝の位が高い方が着る着物の型紙である。これらはまだ重要文化財に指定されていないので、見せることはできるが、指定されると見ることは難しくなる。

またハジチ(刺青)のスケッチを見せながら、ハジチ(Hajichigwa)は島ごとにパターンが違い、女性の成人儀礼の一つで、王家の方も含め、初潮の頃からし始め、結婚、出産、孫の出産などで年齢とともに増える。昭和40年代までは、ハジチをした方が生きていたが、今はいない。鎌倉芳太郎ほど膨大な数で、緻密なスケッチをした人はいない。

円覚寺の写真を見せながら、また、円覚寺跡において、円覚寺は鎌倉の円覚寺を模して造られたと言われており、1495年建立の第二尚氏王統の菩提寺であり、琉球随一の寺院であったが、戦争ですべて焼失した。方生池は残ったが、その上に方生橋があり、山門と続き、仏殿は今も残っている階段の上にあった。現在復元計画があるが、鎌倉芳太郎は写真以外にも釈迦三尊像をはじめとして、繊細な絵などをたくさん残しており、その資料がこの復元にも役立つと思う。そうなれば、首里城と一体となった琉球王朝の仏教文化がより理解しやすくなると思う。

現在の芸大における鎌倉芳太郎についての研究活動として、附属図書・芸術資料館下の地下室に保管されている3000枚のガラス乾板すべてをデジタル化しようと計画しており、今日も学芸員がそのために東京に行っている。デジタル化ができれば、コンピューターグラフィクスを利用して、よりリアルな映像が復元できるのではないかと思う。』

また、鎌倉芳太郎顕彰会が石碑を沖縄に建てる準備をしていることを知り、ぜひ協力したいということで、その候補地を案内していただきました。一つは芸大付属図書・芸術資料館の入り口付近で、もう一つが首里城公園内の久高島が見える丘の上でした。どちらも、観光客を含め、たくさんの方々の目に触れる場所でした。



その後、学長室において比嘉康春学長(専門は三線)とお話をする機会を設けていただきました。

篠田会長から「今年は鎌倉芳太郎生誕120周年で、高松南RCも鎌倉芳太郎顕彰会と歩調を合わせて郷土の偉人を称えようとしています。先日も波照間永吉先生に高松にお越しいただき、クラブ例会でも貴重なお話をしていただきました。豊田章二ガバナー時代の2009年には、三木町にある芳太郎の生家を望むことができる山大寺池堤防に顕彰碑を建てました。香川でも沖縄でもあまり知られていない偉人の顕彰を今後も続けていきたいと考えています。」と、今回の訪問の目的を述べました。

比嘉学長は「本学には鎌倉芳太郎先生の膨大な数の資料が収められています。沖縄県民全員が感謝すべき財産であると思います。顕彰碑を沖縄で建てる計画があるということを聞きました。附属図書・芸術資料館の入り口のところであればたくさんの人に見てもらえるし、実行委員会ができれば、学内敷地ならスムーズに話が進むと思います。首里城内に建てることも可能とは思いますが、国や県の許可がいるので簡単ではないかもしれません。顕彰碑を庵治石で作るのはどうですか。鎌倉先生の資料はすべてこの附属図書・芸術資料館の地下にありますので、ゆかりの地であると思います。検討してほしいと思います。」と、歓迎の言葉と顕彰碑建立への協力の意思を頂戴しました。

宮城篤正先生も顕彰碑について「現在の芸大の敷地は、戦前には沖縄県立師範学校があったところです。鎌倉芳太郎は大正10年に安里(あさと)にあった沖縄県立第一高等女学校・女子師範学校に赴任しましたが、こちらの師範学校でも講義をしていました。元県知事の屋良朝苗も教え子の一人で、鎌倉芳太郎先生が記念講演をしたときに屋良知事が来て、抱き合って喜んだところでもあります。また、当時の市役所は現在の(芸大図書・芸術資料館と隣接している)首里公民館・図書館のところにあり、そこに暗室を作り、龍樋(りゅうひ)の良い水を使って写真を現像し、その写真が現在も残っているのです。ゆかりが深いところです。」と、アドバイスをいただきました。

 


その後、那覇南RCの例会場であるパシフィックホテル沖縄に移動し、那覇南・富山南・高松南の3RC合同例会に参加しました。例会に先立ち、那覇南RCと高松南RCの友好クラブ関係がちょうど10年を迎え、喜屋武力那覇南RC会長代理と篠田日出海高松南RC会長との間で、友好クラブ関係継続の協定書にサインして交換し、さらなる関係の促進を約束しました。例会には波照間永吉先生と宮城篤正先生にも参加していただきました。ロータリーメンバーとの触れあいが今後の活動につながることが期待できます。佃昌道会員が「那覇南RCと高松南RCのご縁を結んでくれた鎌倉芳太郎の足跡」というテーマで卓話を行いました。主に芳太郎が残した写真をお見せしながら、その業績の偉大さを富山南RCのメンバーにも伝えると同時に、我々も再確認することができました。また、そのご縁で始まった那覇南RCとの交流も10回を超えることになり、ますます友好関係が深くなっていることを実感しました。

参加者は以下の22名でした。

篠田日出海会長・多田耕三幹事・豊田章二PDG夫妻・中村秀明・詫間行芳・田中弘之夫妻・吉田茂夫妻・佃昌道・秋山俊二・今城広治・田中理一家・田村禎啓一家・堀祥二


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 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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