友好クラブ-上野ロータリークラブと那覇南ロータリークラブ-

 

 上野ロータリークラブと那覇南ロータリークラブとの友好クラブの切っ掛けは、前川 雅一さん(元当クラブ会員)の平成16年の卓話でした。

それぞれ西嶋八兵衛(にしじま・はちべえ 伊賀上野)と鎌倉芳太郎(かまくら・よしたろう 香川県三木町)という二人の人物を介して実現に至りました。

卓話「西嶋八兵衛と鎌倉芳太郎」     前川 雅一会員

 私がここでご紹介する二人の人物について、香川県の人々が余りにもその名前も業績も知らなさ過ぎるということでお話しさせて頂くことにしました。

 西嶋八兵衛は伊賀上野の出身ですが香川県の為に多くの功績を残し、また鎌倉芳太郎は香川県の出身ですが、沖縄の文化の伝承に掛け替えのない大きな功績を残しています。

 藤堂高虎に仕えた西嶋八兵衛は、讃岐に派遣され延べ16年間滞在しています。この間ため池の築造、満濃池の修築、高松市の中央を流れていた香東川を紫雲山の西側に付け替えをしています。このほか新田開発にも力を注ぎ手掛けた工事は80箇所にも及んでいます。降雨量が少なく再三の干魃による飢饉に苦しめられていた讃岐で、慢性的な水不足解消のための今様にいえば農業基盤整備事業をしたのです。

 八兵衛は、藤堂家所領の伊勢でも雲出井の用水路の整備や新田開発を行っています。この功績に対して津市には銅像と記念碑が建っています。記念碑には、高松藩で如何に功績を挙げたかが記されており、新田開発を手掛けた伊勢には八兵衛を祀る神社もあります。

 これだけの水の恩人に対して香川県では高松市の四番町小学校の近くに「西嶋八兵衛旧居跡」の小さな立て看板しかありません。栗林公園の商工奨励館の中にある「大禹謨(だいうぼ)」と刻まれた石は、当時香東川に付け替え工事の完成と安全を祈って八兵衛が埋めたものです。八兵衛の真筆で、後世に香東川の堤で発見され、現在栗林公園に置いてあります。香川県人が忘恩の輩というと大げさになりますが、お世話になったにもかかわらず余りにも名前も功績も知らないのは、まことに残念で恥ずかしいと思います。

 これに対して香川県出身の鎌倉芳太郎は、沖縄の大恩人だということで沖縄県では神様扱いです。

鎌倉芳太郎は香川師範学校から東京美術学校(現東京芸大)へ進み、卒業後2年間、沖縄に出向き教職に就きました。帰京後、首里城寝殿が取り壊されることを新聞報道で知って取り止めさせたことは有名な話です。

 当時の首里城は、破損が甚だしく危険なので撤去されることになっていましたが、大変な文化財を無くしてしまうと考え、師事していた東京帝大の伊藤忠太先生にお願いして着工の直前に、取り壊しを中止させています。その後、首里城を調査、研究した結果、国宝に指定されました。

 沖縄戦で首里城は跡形もなくなりましたが、芳太郎の残した多くの文献によって復元され、観光のメッカになっています。

 琉球の伝統芸術・文化の調査に於いても、的確なスケッチ、詳細な記録は81冊の鎌倉ノートと称され残っています。蒐集した古文書、絵図、写真、紅型の型紙・布地など資料は、芳太郎没後東京芸大から沖縄県に寄贈され、沖縄県立芸大に保管されています。

 途絶えていた紅型の再現を志して58歳で作家になっています。伝統工芸展の初入選が60歳、昭和48年、75歳で重要無形文化財・型絵染め保持者として人間国宝になられています。

 昨年沖縄を訪れたときのことです。私たちが香川から来たのを知った案内人は、急に態度を改め「鎌倉芳太郎先生は、沖縄文化の大恩人です。先生が居なければ首里城も、紅型もありません。先生への感謝の気持ちは沖縄県人全てが持っています」と丁寧なお礼の言葉を述べました。

(高松南ロータリークラブ 平成16年2月18日例会)

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 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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