第3回禹王サミット -2013.7.6~7

        日時:平成25年7月6日(土)、7日(日)

場所:栗林公園・香川中央高校・大野小学校・龍満池・新池

 禹王は約4,000年前の中国、夏王朝の始祖であり、それまで度々氾濫を繰り返していた黄河を治めたことで治水神としても崇められていた王様です。禹王は日本においても治水神として広く信仰されており、禹王、大禹、夏禹、文命などの名前で石碑や木像、絵図などとして各地に残されており、治水や土木工事の際には広く利用されていたことが分かっています。

 禹王まつりとは、その禹王の名前を刻んだ石碑などが、現在までに日本全国では60ヶ所以上で見つけられており、それを全国的に顕彰し、情報を共有しようと2年前に神奈川県開成町で第1回の集まりが開催されたのが始まりです。昨年、第2回が群馬県片品村で、そして第3回が先日高松で開催されました。

 今回も県外からの参加者100名以上を含め、300名を越える方々が熱心に、また楽しくたくさんのことを学ぶ機会となりました。地元では浜田恵造香川県知事はじめ関係者一同が2年前から準備を進め、この日を迎えました。

香川で唯一発見されているのが、皆様ご存知の大禹謨の石碑です。「大禹謨」とは「大」=偉大な、「禹」=禹王の、「謨」=はかりごと、という意味で、「書経」50篇の中の1篇である「大禹謨」にあやかって西嶋八兵衛が建てたと解釈されています。

 この大禹謨は、当時、香東川の下流が紫雲山を挟んで東西2つの流れに分かれており、その東の流れがたびたび氾濫して昔の高松の発展を妨げていたために、西嶋八兵衛が東の流れを香川町大野付近でせき止めて、西の流れに一本化したときに、その分岐点辺りに、1637年頃に鎮祭されたといわれています。そして、それが1912年(大正元年)の洪水の時にたまたま発見されましたが、当初は何を意味するものかも分からず、大野の薬師堂脇に鎮座されていました。しかし、その後の調査で上記の事績に基づいた西嶋八兵衛の真筆が遺されているものであることが判明し、1962年(昭和37年)に栗林公園商工奨励館中庭に遷座され、その横にはその由来を説明する石碑が2005年(平成17年)に国際ロータリー第2670地区香川第Ⅰ分区によって設置されています。昨年は、大禹謨発見100年、栗林公園への遷座50年という記念すべき年でした。

          栗林公園商工奨励館北館
          栗林公園商工奨励館北館

 今回のサミットでは、中国、台湾、日本を中心とした東アジアにおける禹王遺跡の分布や存在意義、大禹謨の語源と西嶋八兵衛の思い、八兵衛も力を注いだ讃岐のため池文化、八兵衛の讃岐での事績などについて、講演やパネルディスカッションによりたくさんの知識を得ることができました。

 西嶋八兵衛は1596年に遠州浜松で生まれ、伊勢藩主藤堂高虎に仕え、85年の生涯を送りましたが、その26才から47才までの20年余りの中の多くを、正に働き盛りの時代を、讃岐の発展のために尽くしました。今回のサミットにおいても、龍満池や小田池をはじめとした多くのため池の築造や満濃池の復興、さらに河川の改修や福岡、木太、春日の新田開発、そして今回の大禹謨の発見と関係が深い香東川の附け替えなど、八兵衛が讃岐の農業基盤整備等に果たした功績の大きさを再認識することができました。さらには、八兵衛が予測していたかどうかは分かりませんが、香東川の東の流れをせき止めたことで、その伏流水が紫雲山の東から吹き上がり、その後の栗林公園の築庭につながり、高松の文化の発展にも大きく貢献したということにも、今さらながら感銘を受けました。

 高松南RCからは、このサミットを中心的に運営した佃 昌道会員をはじめ、増尾副会長、越智会員、篠田会員、堀会員が参加し、そして元会員の前川雅一さんや佐藤源さんとも旧交を温めることができました。さらには、上野RC訪問時にお世話になり、八兵衛の菩提寺である正崇寺の墓所を整備している伊賀上野の稲垣さんや、次々年度に禹王まつりを開催する大分県臼杵市の皆様など、たくさんの関係者と交流することができました。

(報告:堀 祥二)

 

Club Banner
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 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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